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副住職の唯真です。

今回は哲学者の梅原猛氏の著書
『『歎異抄』と本願寺教団』(1984)から、
「親鸞聖人の教えの継承者としての唯善上人」
という視点で言葉をまとめてみたく思います。

まず、親鸞聖人の教え(法然上人から
頂かれた、他力のお念仏の教え)を
一言で申せば、
「本願を信じ、念仏をもうさば仏となる」
に尽きるかと思います。

寺院を造営することも作善であり、自力の
仏道ですから、親鸞聖人は「寺」ではなく、
みんなが集まる場、「道場」を大切にされました。

しかし、親鸞聖人亡きあと、直弟や子孫たちは
道場の「寺院化」へとみな舵を切りました。

それは、親鸞聖人が頂かれた
他力念仏の教えを後世に継承するには、
実際に教えを伝えていく主体となる
「組織」(サンガ)がやはり必要であったという、
現実的な面が大きかったであろうと思います。

作善としての寺院造営ではなく、人から人へ
伝えていく組織が身を置くための基地として、
浄土真宗でも「寺院」が必要となったのでしょう。

民家を改修した道場では
物理的に手狭だったりして、
収容人数も限られるでしょうし、
となると後世に伝えていくための
布教活動にも、自ずと限界があった
とも思えます。

またある程度の権威を集まりに
持たせないと、道場を建てて布教
しても、数世代のうちに既成仏教宗派に
取り込まれて消滅してしまうという、
やはり現実的な課題もあったことでしょう。

とにかく、やがて浄土真宗(一向宗)
として認知されていくグループは、
自分たちの道場を寺院化し、
キャパシティを増やす道を選びました。

そして、その上で広く布教を行い、
門徒の人口を増やし、
他宗派に吸収されずに、一宗派として
独立できる力をつけるために
「教団化」していく必要があった
とみえます。

親鸞聖人の廟所、大谷廟堂の
留守職を争った唯善上人も覚如上人も
それぞれ「西光院」と「本願寺」を
建立し、寺院として組織を運営していく
ことになります。

そして、寺院化、教団化という
組織作りの面で、覚如上人は優秀で
あったと思います。

というのも、覚如上人はそれだけ
「親鸞聖人の教えを意図的に避ける」
ことが上手かった。
教団化のため、より適した教義に
変化させる、そうした能力に長けて
いたからです。

たとえば、覚如上人の思想に「宿善」、
「宿善開発」という発想があります。

これは「前世で善行を積むと、他力念仏の
教えを信じることができ、念仏を頂く人となる。
なので、そのような宿善を開発せねばならない」
という、ユニークなものです。

【宿善開発という思想を覚如が唱えたときに、
そこに唯善がいて、それはちがう、宿善開発
なんていったら、特定の人だけ救われて、
それ以外の人は救われないことになるのでは
ないかと反論するのです。

これはぼくは親鸞の立場からいえば、唯善の
いい分が正しいと思います。ところが覚如は
そう考えない。『大無量寿経』にも、それから
中国の善導の『観経疏』にも宿善の考え方が
あるということを経文をあげて証明しているのです。

ここでひじょうに興味深いことは、覚如は、
それが親鸞の教えだとは決して言わないのです。】

【そうすると唯善は、「さては念仏往生にては
なくて宿善往生と云うべしや」と批判する。
私は唯善のほうが、親鸞の教えの正しい解釈だと
思います。】
梅原猛『『歎異抄』と本願寺教団』
小学館 1984 63p

と、哲学者の梅原猛氏は言及しており、
私もそれに同意するものです。

ただ、なぜ覚如上人が「宿善往生」を
唱えたか。
それは、それが僧侶の権威を確保
することに繋がるからでしょう。

「宿善を持っている者が僧侶」、
もしくは
「開発させてあげられるのが僧侶」
となれば、どうでしょう。
僧侶と門徒(信者)の間には
必然的に上下関係が生まれます。

こうして僧侶の権威が発揮されれば、
信者は信仰的に逆らえなくなり、
意見を言えず、
僧侶側は集団を統べやすくなります。

そうすると、ある集団をひとつの
指導者のもとで、より”円滑に”
組織化、教団化させていくことが
可能となります。

宿善の発想は、自分たちの陣営を
組織化、教団化していく上で
求められたアイディアとして、
とても練られたものでありました。

しかし、純粋な唯善上人は
それだとおかしいのではないかと
意見を述べますが、それは封殺され、
むしろ反対した唯善側がおかしい、
間違っているとされてしまいました。

覚如上人からすれば、こうした
まっすぐな唯善上人の指摘は、
「教団を作る」という目的を邪魔する
鬱陶しいものでしかなかったのでしょう。

覚如上人は人々の平等な救いではなく、
大谷廟堂の教団化という目標の方を
まず優先し、選択したと考えられます。

【理論からいっても唯善のほうが正しい。
唯善のほうが親鸞の正しい継承者だ。
親鸞および師の唯円の立場を唯善は
はっきり理解している。

覚如の方が親鸞説をゆがめているが、
宿善開発という思想によって、宿善を
開発する、つまり念仏をすすめる側の
立場がたいへん大きな意味を持つ。
まあ、巨大な教団をつくるにはそういう
思想が必要だと思う。】

【この理論闘争はどちらが正しいか。
親鸞の思想の正統な後継者は唯善の
ほうであるが、教団の成立には、
覚如のような考え方が
必要であるかもしれない。】
前掲書
梅原猛『『歎異抄』と本願寺教団』
小学館 1984 65p

私は、親鸞聖人の教えに触れるには、
覚如上人が語らなかったこと、
唯善上人が語ったこと、
覚如上人が批判したこと、
本願寺教団以外の他宗派や
お寺に伝承されていること、
これらを多角的に観察することで
可能になってくるのではないかと
感じました。

恐らく当山には唯善上人の教えを
まとめた書物があったはずです。
しかし、それらは戦乱により
すでに散逸してしまったと考えられます。
残された欠片から、唯善教学を復興して
いく必要もあるかと思います。

合掌