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副住職の唯真です。

2019年9月に京都市の「念珠仏具商
藤田百八堂」さまを訪ねました。

今回はその時のことを振り返って
みたく思います。
(2023年1月記す)

明治から昭和初期の当山第23世住職、
厳善さんは本願寺でお鍵役を務めていた
関係で京都に長く住まわれていました。

百八堂さまは元々旅館として
創業されたこともあり、
厳善さんはその離れ屋敷を
借りて住まわれていたそうです。

ですので、厳善さんは藤田さまご家族
と一緒に暮らしていたことになります。

そしてその当時の様子を、藤田明さまが
私にお話してくださいました。

僭越ながらここに2019年に
私が直接聞かせて頂いたこと、
そしてお伺いする前に頂いた
丁寧なお手紙の内容をまとめさせて
頂きます。
お手紙の日付は令和元年(2019)
8月21日です。

(私が「電話大日尊」について、ご質問の
手紙を先に出させて頂いており、その御返事
としてお書きくださりました。)

(なお、当山所蔵文書にみえる本人による著名
が「嚴善」となっており、『常敬寺のあゆみ』
でもその表記に基本的に則っております。
しかし、日常的には主に「厳善」と書いていた
ようで、藤田さまもその表記での認識でした
ので、本コラムではどちらも用いること
ご了承くださいませ。)

藤田明さまは大正13年(1924)のお生まれで、
「90年前の朧気ながらの想い出」と、
お手紙にて厳善さんとの記憶を
教えてくださりました。

・「昭和初期に中戸厳善師が御本山に出仕
されるに当り、御夫妻様とお孫さんが拙宅の
離れ屋敷を御利用頂いたようです。」

百八堂さまには、厳善さんと
妻である美富さん、
そしてお孫さんの彰善さんの
三人で住まわれました。

・期間は、「私(明さま)の
幼児から小学校二年頃(昭和の
初めから6~7年頃まで?)」。

・「厳善師は毎日御本山へ御鍵役として出仕され、
お部屋には何時も大小二つの琴が立ててあった
のを覚えております。お優しい奥様にも随分
可愛がって頂きました。」

・厳善さんのお孫さんの彰善さんとの、
「(私の5年程年上だったと思います。
小さなお坊さんという意味か
「コボちゃん」とお呼びしていました)」、
「いつもお邪魔しては
「橘中佐の歌」を初め教わった事など、
折にふれて懐かしく思い出して
おります。」という、
あたたかな交流に関しましても
教えて頂きました。

・そして厳善さんが亡くなった時は
「厳善師御逝去の前後は御本山の
多くの師達が続々と詰めてこられ
たのを微かに覚えております。
師の御人徳の高さをつくづく
感じました。」
と、当時を回顧し、記して
くださいました。

2019年9月16日に
私が京都の百八堂さまを
訪ねた際は次のお話をして
くださいました。
(メモ取り等はしていませんので、
うろ覚えになります)

・小学校の頃、賞を獲った書が
体育館に掲げられた際、彰善さんが
「うまいもんだ」と褒めてくれた。

・京都の夜。厳善さんは当時の京都市電を
指して「ほら、一つ目が来たよ」(ライトが一つ)、
車(当時は日本車なんてものはなく、
みんなアメリカのフォード社製)を指して
「二つ目が来たよ」(ライトが二つ)と言っていて、
おもしろいことを言うなあと印象に残ったそうです。

人柄が想像できるエピソードで、
貴重なお話を聞かせて頂きました。

訪ねていった際、とても優しく
私のことを迎えて頂いたこと
忘れません。

京都駅で頂いたお食事(伊勢丹・加賀屋だった
かと思います)、展望台(京都駅十階)から
市内を見下ろして街を案内してくださった
こと、かけがえのない思い出となりました。

祇園辻利 京都駅八条口店で
抹茶のスイーツも御馳走して頂きました。

本当に本当に、ありがとうございました。

合掌
南無阿弥陀仏