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副住職の唯真です。

今回は江戸時代、延宝年間に
起こった当山の改派問題に
ついて考えてみます。

当山にも具体的な資料が
見当たらず、
また、当山が改派する
きっかけの一つとなった
上越市天野原の明善寺さまにも
資料が残っていないことが
分かり、中々、事実解明に
向けて研究が進んでいないのですが、
要点だけでも記録しておこうと思います。

貴重な先行研究として

大場厚順
「高田常敬寺について 改派に関連して」
『頚城文化四五号』一九八八

がありますので、引用し、
みていきたいと思います。

【明善寺(上越市天野原)は
草創期から常敬寺系統の寺で、
関東・信濃・越後福島城下へと移転し、
元和九年(1623)あるいは寛永年中に
高田に移り、その後、延宝五年(1677)に
天野原に道場を構えた。
道場主の円応(円翁)が上寺常敬寺と対立し、
常敬寺が東本願寺派(ママ。大谷派を指す)へ
改派している。】
『頸城文化四十五号』 194p

常敬寺改派に関する資料は、
当山には若干残されているだけで、
その概要は専ら『諸国江遣書状之留』所収の
西本願寺家臣からの書状によって掴む他
ないようですが、
どうも当山常敬寺と円応との間で
揉め事があったようです。
(後述しますが、私が天野原の明善寺さま
からご教示頂いた内容から推察するに、
道場やお寺そのものではない、
円応個人とのトラブルのようです)

それは教義解釈の相異か、はたまた
運営の関することか、それとも全く別の
なにかか、具体的なことは不明ですが、
とにかくトラブルがあった。

それで、常敬寺からすると
「末寺の人物が指示に従わない」と
感じたようです。

【上寺常敬寺との教義解釈の相異か、
なにかで常敬寺の意向に反した行為が
あったのであろう。】
前掲書 196p

常敬寺の対応に不服を感じた
円応は西本願寺に訴訟し、
問題は常敬寺と円応の揉め事から、
なぜか、常敬寺と西本願寺の対立へと
至っていきます。

【常敬寺が西本願寺の命に従わず
反抗し「別心」を起こしたと言っている。】
(西本願寺から高田瑞泉寺に
宛てられた十月二十日付けの書状)
前掲書 198p

この書状の前、十月七日(延宝七年)に
当山はお西からお東へと改派しており、
「別心」とはそのことを指していると
思われます。

なにかのやりとり、交渉が決裂した結果、
「別心」へと至ったということが
読み取れるでしょうか。

【この改派に関して十月二十七日付で
瑞泉寺宛に「一ヶ寺ニ而も門徒衆壱人ニ而も
残リ候様、随分御了簡尤ニ候儀と存候、
委細善巧寺可被申候」と、瑞泉寺に協力を
求めている。

また同日長岡触頭三ヶ寺宛に
長岡の有力寺院正覚寺を警戒し、
同寺に取り成す様に依頼している。

さらに五月二十一日には信濃国の有力寺院に
了解を求め、その上「信越之内、常敬寺下坊主、
御本廟え御筋目残留衆中へ、以連署可申候」と
改派しないように統制している。】
前掲書 198p

とあり、当山の改派の影響は、
地域の他の寺にも波及する恐れが
あったようです。

そして西本願寺は常敬寺末寺のうち、
当山に追従せずお西に留まったお寺に
対して褒美を与えました。

【西本願寺は八月四日で同派に留まった
中・下越の六ヶ寺宛に
「就夫而相応之御褒美可被成候」と
伝えている。】
前掲書 198p

円応が住職を務めた寺である
天野原の明善寺さまに、
お手紙及び『常敬寺のあゆみ補完版』
をお送りさせて頂き、
「なにか資料が残っていないでしょうか」
と質問させて頂いたところ、お電話にて
非常に丁寧に教えてくださいました。
(2022年一月下旬頃)
深く感謝いたします。

その概要を以下にに記させて頂きます。
(尚、年号や人名等、漢字表記は電話をしながらの
メモ取りでしたので、私の誤記の可能性もあります)

また、西本願寺の書状には、寺院名ではなく円応
という個人名が挙げられているため、

【単に円応とあることから寺号を称しない
道場であった。】
前掲書 196p

と論考にあり、
私も疑問を持たなかったのですが、
明善寺さまにその寺史を
教えて頂いたところ、
円応以前に寺号を持ち、明善寺となって
いることから、仮に「道場」があった場合、
それは円応の個人的草庵の様なものとみられ、
円応という個人名が挙げられている
からといって、明善寺が寺号を持たない
道場であったとか、
円応=明善寺として一体化して
捉えていいのかと、早々に判断
してはいけないと気づきました。

「明善寺の円応」という一人の人物
(その当時、住職か先住かは不明)との
揉め事であったのかもしれません。
(明善寺の総意ではなく。)

それらを踏まえた上で
お読みいただければ有難く存じます。

【伺った縁起等々】

・明善寺は唯善上人の頃から常敬寺さんの
そばにおり、この度お手紙と寺史を頂きまして
有難うございます。

・当山の記録では円応ではなく、「円翁」という
表記だが、その円翁と常敬寺の出来事というのは
初耳で、とても驚いている。それらに関する資料も
お寺に見当たらず。

・もともとは「東樹坊」という、下総時代の
西光院(常敬寺)の塔頭で、常敬寺の移動に
伴って一緒に動いてきた。

・元和4年(1618)、教順住職の
時に「東樹坊」から「明善寺」となる。

・高田の寺町に寛永17年(1640)に
移ってきた。
明善寺さまの寺伝によると、
福嶋城下から高田寺町に
「常敬寺に従って(一緒に)来た」と
される。
(※『新潟県寺院名鑑』1983
では高田寺町に来たのは「元和九年(1623)」で、
その時に明善寺に改めたとある)

・寺町から天野原には、
延宝五年(1677)に移った。
これは上杉家の浪人の招請によるもの。
(その浪人は長者原の渡部玄葉-わたなべげんば-、
舟の「渡し」をしていた方とのこと)

・現在の本堂は元禄二年(1689)に
建立されたもの。

・寛延元年(1748)に明善寺はお西からお東に
改派する。(現在も大谷派である)
(※『新潟県寺院名鑑』には本願寺分裂当初は
元々お東で、その後にお西、そしてお東に
復したとある)

・お西であったのは円翁の時代まで?のみ?
それか、明善寺とは別に道場を持っていて、
(隠居寺的役割だったのかもしれない)
明善寺の運営とは別れていた?
「明善寺の円応」であるとすると、
その一代に限り、明善寺はお西に残る
ということだったのかもしれない。
(円応が亡くなった後は、常敬寺と
同じようにお東へと改派する)

・これは私(唯真)の推測だが、
元・塔頭で、高田寺町の当山に隣接する
同名の明善寺さまは、こうした円応との
確執を経て、新しく「明善寺」として
置かれた可能性がある?
開基や由緒も共通である。
(現在、両寺寺族の名字は異なる)

明善寺は代々常敬寺と縁深いお寺であり、
天野原の明善寺が中戸山一門を離れたとしても、
常敬寺としては「失う」わけには
いかなかった?
(あくまで憶測で詳細は不明)

当山に隣接する寺町の明善寺さまは、
明治に入るまで当山の過去帳を
預かってもらい、管理する「書役」(かきやく)
をして頂いたと私は親より聞いています。

(母親は祖母ひでから聞かされていた。
「昔はよくウチに通ってきてくれたらしいよ」と。)

同じく元・塔頭の浄蓮寺さまと共に
天野原の明善寺さま、寺町の明善寺さまは
当山にとって非常に大事なお寺であること
は間違いないでしょう。

以上、当山の改派に関して
現在分かっていることを
まとめさせて頂きました。

合掌