2019040202

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副住職の唯真です。

今回は私が学生の頃から抱いていた
疑問を書き綴ってみたく存じます。

たとえば、真宗史の授業や研究で
「唯善事件」について触れる時です。
そこで取り上げられる、
論文をはじめとする様々な文章において
私が思っていたことは以下の様なもの
でした。

唯善と覚如について語るとき、
覚如は「上人」をつけて唯善は呼び捨て、
または唯善師、善公と表記される(上人
より格下)ことが多いという事です。

しかしです。
唯善も亀山法皇から上人号を
頂いているので、どちらも
上人付けで構いません。

それか、または両方呼び捨て
でもいいのです。

唯善、覚如。
唯善上人、覚如上人。

イメージは、尊称の有無で、
書き手の主張したいように
人物像を操作できるので、

上人号を頂いている唯善を
なぜ呼び捨てにし、

覚如は上人をつけるのか、
ということを私は指摘したいです。
十代の時からずっと言いたかった
のです。

中立な立場を取ろうとすれば、
呼び捨てで構わないはず、というの
が学生の頃からの私の疑問でした。
「なんでだろう?」と読みながら
思っていました。

「プロ」だろうが「素人」だろうが、
まったく関係ありません。学位がどうとか、
学閥がどうとか、まったく関係ありません。
研究する姿勢を持つ人は、偏らず、常に
真ん中に立とうとし、学びを深めていって
欲しいと思っています。

私に連絡を頂ければ、末裔として
生の子孫の言葉をインタビューとして
お話いたしますし、お寺にも参って
頂きたく思います。
(留守の場合があるので、事前に
日時を予約してください)

そうした、机の上だけではなく、
身体的な研究を踏まえたうえで、
筆を握ってほしいと願っています。

合掌