この記事はお寺にとって
重要な内容を含むため、定期的に
記事の上にあげます。

jyokyoji

副住職の唯真です。

今回は『常盤(ときわ)の御真影』と
呼ばれる、親鸞聖人の木像について
お話いたします。

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新潟日報社『写真集 親鸞の越後』(1972)

真宗史に興味ある方でないと用語等が
分かりにくいと思いますが、
そういったことに関心をある方に
まず読んでいただければと思いましたので
今回の記事を作る事にいたしました。

特に、妻帯が認められていた浄土真宗では
お寺の歴史は「その家(イエ)」の歴史です。

覚如上人の血統は本願寺・「大谷家」となり、
唯善上人の血統は常敬寺・「中戸家」となり
ました。

常敬寺の歴史は中戸家の歴史です。

そのため、その家(イエ)の人間が
しっかりと書き残していくことが
必要であると思ったのです。

まず『常盤の御真影』というのは
元々京都の大谷廟堂という、
親鸞聖人の墓所に安置されていたという
木製の坐像のことです。
ちなみに、この大谷廟堂が現在の
本願寺へと発展していきました。

そしてこの大谷廟堂は、当山常敬寺を
創建した唯善上人の父親、小野宮禅念さま
の土地に建てられました。

唯善上人は親鸞聖人のお孫さんになります。

当時の法律からいっても、実父の息子に
その土地が相続される決まりであり、
大谷廟堂は唯善上人に継承されるのが
自然でしたが、唯善上人には異父兄の
覚恵上人がいらっしゃいました。
唯善上人は次男坊です。

ここで事態は、二人の母親で、親鸞聖人の
末娘である覚信尼公が間に割り込んできた
ことで複雑化していきます。

土地の相続権を持つ唯善上人は、
再婚相手である小野宮家の子供です。

唯善上人の兄、覚恵上人は親鸞聖人の
親族、日野家の夫との間の子供です。
親鸞聖人の氏も日野です。

覚信尼公一家は親鸞聖人の家族として
聖人のお弟子さんからお金をもらって
暮していました。
働いてはいません。
しいて言うなら「大谷廟堂」、つまり
お墓の管理人のお礼として送金がされました。

これは聖人の家族であるから護られている、
そしてお墓の管理人として護られていると
いうことでした。

しかし、そこで小野宮家の子供が、
日野家のお墓を護る管理人(留守職)に
就くと覚信尼公や覚恵上人は割を食うことに
なります。

そうした政治の中で、覚信尼公は
小野宮家の土地を、小野宮家の唯善上人に
ではなく、長男で日野家の覚恵上人に
譲ることにしました。

唯善上人はこのとき17歳、兄の覚恵上人は
二回りほど離れています。

唯善上人が立ち回れるわけもなく、
唯善上人は京都から追放されてしまいました。

そののち、成長した唯善上人が再び
大谷廟堂の土地を巡り権利を主張します。

そしてこれは都だけでなく東国の門徒も含め、
唯善を支持する唯善派閥と、
覚恵とその息子・覚如を支持する覚如派閥の
争いに発展していきました。

正確に言うと、親鸞聖人の子孫のうち、
唯善・覚恵どちらの流れが就けば
自分たちに得があるかという計算もあり、
唯善(横曽根門徒が応援)・
覚恵・覚如上人(鹿島門徒・高田門徒が応援)
の両上人を矢面に立たせ争わさせた門徒たち
同士の代理戦争でありました。

真宗史ではこれを「唯善事件」といいます。
なぜ唯善事件というかといえば、それは
結果として唯善上人派閥が敗北したからです。
唯善側から見えれば「覚恵事件」であり、
私たちは単純に「土地強奪」と呼んでいます。

唯善上人が求めたのは「留守職」ではなく、
父の「土地」です。
ここに微妙な、しかし決定的な
ニュアンスの違いがあります。
(そして事実上、土地を手に入れるには
留守職になるのが近道ですから色々
頑張ったと思います。事実上というのは、
土地は形式的には東国門徒たちに管理が
委ねられたのですがその後の本願寺のあゆみ
をみても分かるように、なし崩し的に留守職の
ものになっていきました)

当山は室町期に略奪、そして戦国期に
寺ごと焼き払われているため、
口伝を除いては資料が残っておりませんが、

勝者の大谷家(覚如の流れ)から
してみれば、唯善は「実父の土地」を
求めたとは記述できなかっただろうと
考えられます。
(巡り巡って、大谷廟堂の土地に関する
唯善側の理屈の正当性を認めることに
繋がるので)

そして唯善上人は自分の支持基盤である
東国(その中で現在の首都圏付近)に移動し、
鎌倉を経由し、下総国でお寺を建てます。

そのお寺が当山常敬寺で、私は唯善上人の
末裔にあたります。
親鸞聖人の子孫のうち、覚如系統が
大谷の地を冠する「大谷家」、
唯善系統が下総国の中戸の地を冠する
私たち「中戸家」となりました。

さて前置きが長くなりました。

ここで本題の『常盤の御真影』のお話です。

jyokyoji

敗北した唯善上人が東国へ立ち去るとき、
大谷廟堂に安置されていた『親鸞聖人坐像』を
一緒に持ち帰ったと”伝えられています”。

(なぜ持ち出したのか、その動機は不明です。
持ち出したところで土地は手に入らないし、
留守職にもなれないし、デメリットが多すぎます。

また、東国にて独自の一派を形成した痕跡もなく、
むしろ横曽根門徒の保護のもとにあったと思われ、
自身の権威付けにも御真影使っていないようです。

覚如側の妨害とみるのが自然ですが、そのためだけに
するとリスクが大きすぎるので、よくよく考えてみると
本当に動機が不明であることに気が付きます。

後述することに絡みますが、持ち出したとしたら、
本当は自身の権威付けや一派を興すことに
使いたかったが、東国への道中にて紛失して
しまったのかもしれません)

そして唯善上人は鎌倉の常盤(ときわ)で草庵を
建て、この『坐像』を安置したと”いいます”。

常盤に置かれた坐像、これを『常盤の御真影』
といいます。

この坐像は現在「行方不明」で、江戸時代から
その坐像はどこにある!?という研究が続けられて
います。

たとえば、すでに本願寺に
受け渡されているとか、

江戸時代には
長沼(現在の横浜市)の正安寺や、
倉田(現在の横浜市)の永勝寺に
安置されている、いた
と伝聞されたり、

昭和中期、後期の研究では
長野市の城山本願寺
(東本願寺長野教会)にある
聖人像、通称「潮越の御真影」が
それであると言われたりしました。

『常盤の御真影』はいわば最初期の
真宗における宗祖彫刻です。

それゆえに、要するに
ロマンのかたまりなのです。

時代時代ごとに、実はここにある、実はここにあると
言われるのは、みなその夢に溺れているからです。

なぜ『常盤の御真影』はないのか。
常敬寺にあるのではと思うかもしれません。

確かに当山が関宿にあった時代の親鸞坐像は
現在はここ越後高田の当山に安置してあり
ます。

しかしまた気になる伝承もあるのです。

それは、当山第四世の善栄が、本願寺から
再び御真影の首を持ち出し、
下総国まで運んだというものです。
(これは寺伝のほか、
西本願寺収蔵の法流故実条々秘録』や
江戸期の各順拝記の当山記述に見えます。

そしてその後、当山後第六世の善鷲が
その首を返還し、本願寺に帰順しました。

・・・おかしいですね。
唯善が持ち出した坐像が当山にあるのなら
わざわざ再び善栄が本願寺の坐像の首を
狙う必要はありません。

坐像(真影)を有する寺こそ、「本寺」(本山)
であるという考えが善栄にあったようで、
そのために持ち出したことが読み取れるのですが、

オリジナルの常盤の御真影があれば、
そんな危険な真似はしなくていいわけですし、
そもそも常盤の御真影のほうが価値あるもので
それを有していれば堂々と善栄は自らを
「本寺」と名のることができたでしょう。

つまり、当時の常敬寺には、
(少なくとも歴史・由緒を持つような)坐像は
なかった、とみるべきではないでしょうか。

真影が二つあっても仕方ありません。
(それだけで本寺を名のれるくらいのもの
なら一つで十分という意味です)

つまり、善栄の時代にはすでに
唯善の持ち出した坐像は失われていたと
考えられます。

そのために善栄はリスクある行動に
でたと読めるでしょう。

他にも、これに関係することとして、
唯善上人は鎌倉の常盤に
その坐像を放置していったといいます。
そのまま下総国へ行き、お寺(西光院)を
建てたと言うのです。

・・・本当に大谷廟堂から持ってきたのなら、
なによりも優先して下総国まで運ぶのが道理です。

しかし唯善上人は置いていったという。

これはつまり、その坐像が
『大谷廟堂の坐像』では
ないということです。
恐らく、レプリカだったのでしょう。
鎌倉常盤にて新しく坐像を作ったのです。
なんのためか。
唯善上人によるパフォーマンスであったと
思います。

連日この『常盤の御真影』を見に
人々が集まったといい、
こうした中で唯善上人は東国の門徒
以外の民衆からも認知されることに
なったでしょう。

立派な御真影を擁する
お坊様が都からやってきたと
伝聞されるわけで、
当時幕府のあった鎌倉でその名が
有名になれば、
各界とのコネクションもでき、
様々な面で動きやすくなると思われます。

(大谷廟堂の事件以前から、
唯善上人にとって東国は第二の地元と
なっていました。
ですので坐像云々の前から、
東国における各所との繋がりは
持っていたでしょうが、
より広い層へのアプローチに、坐像を
活用した広報方法は大変役立ったと思われます)

そのことを証明するかのように、
将軍の援助により当山が下総国に建てられる
ことが決定します。
(のちに戦禍にあい、唯善の常敬寺である
当山は現在は新潟県上越市にあります)

つまり、たとえばお寺を建てるためには
土地や資金を提供・援助してくれる
パロトンが必要となりましょう。

その獲得のために、自身を喧伝する
戦略として、坐像の『レプリカ』を活用した。
そしてお寺は建った。

役割は果たしてもらった。

だから坐像は置いていった。

……ということも考えられます。

なぜレプリカだったのか。

その理由は複数考えられますが、
第一に、そもそも唯善上人は、
東国に大谷廟堂の坐像を携えて
来なかった、と推察できるでしょう。

無いのだから、作ろう。
という、シンプルな理由です。

実際木像を東国まで運べるものか
どうか。(無事に)

実行した場合、
数百キロの遠距離を運ぶことになり、
相当念密に計算された、
大人数での計画であったでしょう。
大谷廟堂から持ち出してはい終わり、では
ないのです。
東国まで陸路・水路様々なルートを
想定してシミュレーションを重ねた
はずです。
唯善側陣営の横曽根門徒たちとの
一大作戦であったことは間違いありません。

パパッと持ってくるなんてことは
できないでしょう。

となると、唯善側にはそれだけの
勢力があったということになり、

同時に覚恵、覚如に対しても
多くの対抗勢力があったとみなせ

(覚恵・覚如を支援する
鹿島門徒・高田門徒の連合軍と、
唯善[河和田門流]・横曽根門徒の
レジスタンスの争い)、門徒はどちらが
留守職に就いた方がより自分たちにとって
得か、ということで動いていたでしょう。

そういう意味では覚恵・覚如と唯善の争いは、
門徒同士の派閥の代理戦争の面もあるのです。

兎も角、結果的にこの持ち出し作戦に
失敗した、というのが最初にあげる説です。

だからレプリカを作ったという
考え方です。

この他に考えられる説として、
坐像の「首」だけ持って
いったという意見もあり得ます。

作りとして、坐像の首は
外れるようになってることも
珍しくありません。

首だけなら、懐に入れて運べますし、
坐像全部を輸送するよりも容易でしょう。

そして改めて胴体を新しく作った。

ですがその場合、鎌倉から下総国に
唯善が移動するとき、オリジナルの
首を外して持っていくはずです。

都から東国までより、はるかに短い距離の
移動ですから問題なく持っていける
はずです。
(しかも唯善陣営の勢力圏の移動ですから
なおさらです)

しかし、やはり丸ごと放置されたのです。

放置された『御真影』を、
その地域の方がお堂を作って
護持したという形跡や伝承もありません。

この点から、やはり本物の御真影は、
首すらも持ち出すことが叶わなかった
と感じられるのです。

扱いにどうも違和感があります。
「価値」に見合った対応、扱いが
なされていないようにみえるのです。

これに併せて
もう一つ考えられるのは、
確かに唯善上人は大谷廟堂から坐像を
運んだが、長旅の最中にそれを破損や盗難と
いった理由により紛失してしまったと
いうものです。

坐像を失ったために、レプリカを作ったと
考えれば筋は通りますし、一度持ち去っている
のだから青蓮院や本願寺側の記録に
そうあることとも矛盾しません。

当山の関宿時代から有している
御真影の名前が『常盤替御真影』といい、
常盤に安置した替わりの御真影とも
読め、(常盤の御真影の替わりと呼んだ
場合、やはりすでに失われていることになる)
そしてそれは「唯善上人作」と伝わって
いることも、レプリカ説として考えた場合、
大いに納得できるところです。

どうでしょう。

私は『常盤の御真影』伝承は
「徳川埋蔵金」のようなものだと
思っています。

つまり、人々がロマンの熱気によって
作り上げた幻想です。

いえ、かつては、確かに坐像は
この世界のどこかに
存在していたかもしれない。

分かりませんが、しかし、要するに、
唯善上人が東国に来た時点でそれはもう
失われていた可能性が高いと考えられます。

唯善上人は親鸞聖人の御骨も、
御真影も、東国に持っていけなかった
のではないかと思うのです。

なぜなら、鎌倉にも下総国にも、
当山に「由緒ある御影堂」や御廟堂が
あったということが記録されていない
からです。
地域の歴史や、地域の他のお寺の
書き物にも記されていません。
由緒ある坐像を安置した御影堂や、
聖人の御骨を収めた御廟堂があれば、
必ず記録されているでしょう。

その痕跡がまったく無いということは、
当山にそのような建築物はなく、
それに納めるべき対象も有して
いなかったとみられます。

『常盤の御真影』が
「あって欲しい」という気持ちが、次第に
「あるに違いない」となり、そして最終的に
「これがそうだ!」と、人々をエスカレート、
暴走させていってしまったのです。

jyokyoji

当山は戦国期の戦乱で焼かれ、
さらに寺領を奪われ、なし崩し的に
下総国から追い出されました。
そして末寺があり、お寺の勢力圏であった
信濃国に退避し、江戸時代に隣国の越後国に
招請を受けて移動し現在に至ります。

その下総国の当山の跡地(焼け跡)には
「福泉寺」という別のお寺が新しく建てられました。
横曽根報恩寺(江戸に移動したため現在は坂東報恩寺)
の末寺で、当山とは無関係のお寺です。

福泉寺は、当山の跡地にあるという理由で
元禄14年(1701)にその名称を当山と同じ
「常敬寺」へと変更しました。
繰り返しますが当山とは無関係です。
(お寺に直接来て質問されたり、野田市から人が
派遣されたりと各種問い合わせを頂くので
きちんと記述します)

当山はもともと本願寺派(お西)に属して
おりました。(本願寺分裂以降)

南本町の瑞泉寺さまと共に、高田藩の
お西における触頭寺院として
高田城下の本願寺派寺院たちをまとめて
いました。
(尚、瑞泉寺さまはもともと磯部六ヶ寺の
中心寺院である「勝願寺」というお寺でしたが、
越中・井波瑞泉寺がお西からお東に改派したことに
憤怒した西本願寺寂如上人が寛文元年-1661-の12月、
由緒ある「勝願寺」に井波瑞泉寺と同名の寺号を
与えて、改名させました)

しかし、のちに西本願寺が当山の運営に
介入し、「強硬な姿勢」を見せたため、
話し合いの結果、当山は本願寺派を離脱して
大谷派、お東に改派しました。
延宝7年(1679)のことです。

この当山改派に関しては先行研究として
大場厚順氏の「高田常敬寺について 改派に関して」
『頸城文化45号』がありますのでご参照ください。

そして、一家衆、院家寺院である当山常敬寺を
失った代わりに、元禄13年(1700)に反対に
大谷派から本願寺派へと改派した当山跡地の福泉寺を、
急遽、本願寺派の「常敬寺」と整えさせたものと
みられます。

jyokyoji

そして2000年代になると、青山学院大の
美術が専門の津田徹英氏というかたが
この福泉寺が名前を変えた「常敬寺」に
ある坐像が『常盤の御真影』だ!と言い出します。
-以下PDFで閲覧できます-
『親鸞の面影―中世真宗肖像彫刻研究序説―』

しかし、そもそもにして当山が
下総国から信濃へ退避する際、
聖徳太子立像をはじめ丸木の阿弥陀といった
回収可能な法宝物はすべて持って
移動しています。

このときに聖徳太子立像を運んで
くれた方の子孫の方とは現代でも
交流があります。

そして当時の常敬寺に安置されていた
聖人御真影も持ってきているのです。
現在当山に安置されている御真影は、
下総国時代の常敬寺の御真影になります。

福泉寺は新しく建てられたお寺です。
そこには当山のものは所蔵されて
いません。
(江戸時代の各順拝記の
福泉寺(福専寺表記もあり)の
寺宝一覧を見れば分かりやすいと
思います)

加えて長須の阿弥陀寺の『系図裏書』に

「中戸福泉寺聖人ノ影像ハ、浅草報恩寺
宣応ヨリ地内 光照寺真影ヲ給ル」

と、報恩寺の塔頭、光照寺の『真影』を
貰ったと書かれているではないですか。

またこの『系図裏書』には福泉寺が

「直寺之願有之共、報恩寺琢宗師御構也、
故西へ帰参」

とあり、

「(東本願寺末である)報恩寺の末寺である福泉寺は
直(直参)の願いがあったが、報恩寺がそれを
認めなかったので、西(西本願寺)に帰参したのである」

と読め、当山の古文書以外のこうした第三者文献からも、
明らかに津田氏の論文で述べられているような
当山と福泉寺の関係は認められない。(無関係である)

つまり唯善とはなんの関係もないお寺なのです。

津田氏は、その論文を執筆する際
常敬寺のことであるのに当山に調査にも
来ず、当山の歴史も東京の国会図書館に
ある高田藩の資料を引用して済ませています。
(参考文献の一覧より判明)

現地調査をしていないのです。
現地というのは、ここ、当山です。

研究が恣意的なように思えてしまいます。

自身の結論が先に在って、
それに合わせて史料を取捨選択して
いるようにしか感じられない。
史料をパッチワークして「学説」を
創作している、と。
きつい言葉ですが、本当に
間違ったことを書かれて迷惑してる
のでそう言わせてください。

高田藩の藩内寺院の由緒書きは
略されて記されています。
藩の寺社奉行にお寺側が提出した
文書をまとめたものです。

藩としては由緒等は概要が
分かればいいわけで、
(宗派等におかしなところがないか
という)
藩にとって何より大事なのは境内の面積で
あるとか、門徒数といった現実的な
データです。

藩の資料をいくら読んでも
当山の複雑な歴史のあゆみは
分かりません。
略されているのですから。
(下総国から信濃、越後へ
移動しか書いてないです。)

その「略されている箇所」を、勝手に
想像で埋められたりしますと、こちらと
しては大変困るわけです。
学者様が論文でこう書いてあるぞ~と
なるわけです。
私たちからすればなんのことやら……です。

そしてさらに問題なのはこうした内容に間違い
を含む論文が、未来の論文の参考文献として
引用や、論拠とされてしまう点です。

それに対して当事者の私たちの指摘を
無視されたら、(後述)……
もはや、そんなもん言ったもん
勝ちではないですか!
自分と違う意見を無視したら、
それは「研究」ではないですよね?

また、今回のことに限らないことですが、
自分たちの言い分をこうした査読の甘い
論文群を仲間内で作り出して回すことで、
いわばマッチポンプのような機能を持たせ、
なんでも言いたい放題となってしまうケース
も想定されます。

話を戻すと。

福泉寺は当山と関係のない報恩寺の
末寺であるのに、
論文において「福泉寺は常敬寺の塔頭だったが、
力をつけて、常敬寺から離れて独立した」と
いった旨の説明しており、
そこの間違いを手紙で指摘したところ、
なんの返事もありません。
氏には現在までに三回手紙を送っていますが
なんの連絡もありません。(二年間で三回、
三回目ははっきりと返信が欲しい、電話や
line,zoom等で話がしたいと記しました)

つまり、「間違い」が正されないまま
言ったもの勝ちの状態になっているのです。

こんなものは研究とは呼べない。

坐像の研究というテーマ自体は
ともかくです、私たちの歴史を説明し、
そのうえで福泉寺は当山の塔頭では
ないわけですから、そこは違いますよと
指摘しているわけであります。

坐像どうこうを置いたとしても、
明確に当山と直結する歴史に関して
誤りを書かれたのでは困ります。
非常に不愉快ですし、迷惑ですし、
無責任です。

そして・・・・・・
『天文日記』の誤読による当山二分割
という誤解なんでしょうか?
それとも、野田市の方や、千葉にお住まいの
方から聞いたのですが、
「昔々、常敬寺は信濃と関宿の二つに分かれ、
関宿のほうが戦争で滅亡し、塔頭がその跡を
ついだ」・・・という地域の話があるそうで、
それからでしょうか?

そんなオハナシが彼の地にあるそうで、

なんじゃいそら!!!!!!

・・・はあ。

・・・・・・跡地を奪い、当山の寺族(了照)を
関宿から追い出した歴史を、「滅亡したので我々が
引き継ぎました」と、そう説明したのでしょう・・・。

土地を奪いました、と言えるわけがないでしょうし。

といいますか、了照は「関宿」が地元ですから……
「滅亡した関宿の寺族」というのが成り立たない
わけです。
了照を追い出し、「滅亡した」と土地の人々を
黙らせたのでしょう。

また、本願寺が東西に分かれたのをきっかけに、
それに習い(?)常敬寺も東西に分かれた・・・
という無茶苦茶な話もあるそうです。

・・・それだとそもそも当山は最初は本願寺派、
お西のお寺なわけで、その時は福泉寺は「常敬寺」
ではないしで意味が通りません。

そもそもいろいろな説がこうして出ること自体
おかしいというか、何かを隠そうと次から次へと
説明を変えていったためこんなことになっている
んじゃないでしょうか。

本当に困っています。
かなり迷惑してます。
唯善の子孫という当事者として
こういう風に歴史が改ざんされていく
その状況については、許せない、という
言葉がまず出てきます。
看過できないという意味です。

本当にこれに関しては非常に強く
遺憾の意を覚えるところであります。

こういう部分は当山の歴史に直接関わる
ことなので、勝手に書く前にこちらに
連絡ください。
説明しますので。

(天文日記に関してはこちらにまとめてます。
『天文期に常敬寺は二分されたか
~「西光院 浄蓮寺」を交えて』


滅茶苦茶迷惑しています。

なぜ迷惑しているかというのは
こちらの記事を参照してください。
『跡地研究』

唯善を祖とする私たち中戸家の人間から
すれば、常敬寺は私たちしかないというのは
当たり前であって、最初「なんか最近変なこと
言い出す人たちがでてますよ」と教えてくれた
ときはなんのことやらさっぱりでした。

当時の上越市役所にこういうこと言ってる
方がいるんですが、と話をしに行っても
なにをばかなことをと笑われるだけでして、
そういったこともあり、
ほとんど気にも留めていない状態でした。

それが20年くらい前でしょうか。
当時私はまだまだ子供でしたから、
住職が対応に当たりました。

それが年数が経っておかしなことに
なってきました。
ネットをみてもドドンとでたり、
wikipediaが作られたり、
檀家さんから「これなに!?」と
お電話を頂くほどでした。

ですから、私たちは唯善の中戸家の
名誉(先祖代々の歴史)を守るためにも
現在の代の中戸家の人間がことにあたり、
対処し、行動しなければいけないという
思いがあり、そしてそれを成すことが子孫の
役割であり使命であると考えます。

家(イエ)を守るために
戦わなければいけない。

「本人」(お寺としての)である
私たちが違いますよと説明しても
なぜ聞いてもらえないのでしょう……。

私たちの声をよそに、
好き勝手にどんどん新しい
「学説」がでてくる……
二分したとか、塔頭が本坊を
継承したとか……。

他に「信濃に避難したおたくの代わりに、
焼け跡を塔頭の福泉寺が管理したのでは?」
と自論を述べる先生に、
「いや歴史の経緯まとめた
古文書ありますし……
そもそも塔頭じゃないです……
知らないお寺です……
うちに来ます?」と声をかけても
やり取りは終わり、来ません……。

福泉寺が当山と無関係なことが
分かったら、この論文がそもそも
成り立たないので避けられているの
でしょうか?

自分たちの歴史を、誰かのメシのタネで
曲げられたのでは本当にお寺の存在
そのものが消されにかかっています……。

いま、立ち上がらなければいけない。
立ち上がって声を上げなければいけない。

そもそも唯善の末裔である当事者の我々が
査読した結果、ここがおかしいですよ
と指摘しているのに、無視してそのままでは、
まったく「学問」とは呼べません。

小説を書くノリで「学説」唱えないで
ほしいのです……。

『常盤の御真影』はそのロマンによって
なんだかおかしなことに物事をしてしまう。
人を変えてしまうのです。
まるで呪いのようです。

江戸時代から、みんなその『第一発見者』に
なりたがって暴走してしまう。

800年?700年?経って
見つからないんです。

どうしてだと思いますか?

もうないんですよ……。

ないんです。

そんなものは。

あったら、第四世善栄は
本願寺の坐像の首を
もぎ取っていません。

みんなみんな、等しく
『常盤の御真影』に憑りつかれている。

唯善の末裔の私たち、常敬寺が
「ここ間違ってますよ」と声かけしても、
つまり当事者が声を上げても反応しない。
そんな状態になっているのです。

トキワノゴシンエイ、トキワノゴシンエイと
混乱している研究者の人々が目立ちます。

今一度、冷静になって頂きたいと思い、
今回の記事を書かせて頂きました。

私たちは学界の人間ではないし、論文で
発表するということも出来ません。
(載せるから書いてくれと言われれば
いくらでも書きます)
そして手紙で直接送っても返事が来ないので
またしてもどうしようも出来ません。

自分たちの「声」を持つことができません。
相手は言いたい放題でも、です。

好き勝手言われ続けたらどうなるか。
ただの坊さんである私たちの史料は
埋もれ、消え去り、学者が書いた文章だけが
保管され、この先五十年、百年、
その先の世界に間違った情報のみが漂う
こととなる。

それを何としても阻止しなければ
いけない。
そんな暴挙を許してはいけない。

当山は侵略戦争のただ中に置かれています。

お寺の歴史が乗っ取られそうになっているんです。

お寺の名誉を護らなければ
ならない。

家(イエ)の誇りに泥を塗られて
黙っていたら男じゃない。

こちらの「旗」を掲げなければ
いけない。

ですのでこうしてブログを用いて
アンサーするしか私たちにできることが
ないというのが現状です。
(手紙を無視され、話がしたいと記しても
拒否されているので、ブログで発信するしか
手段がない)

お寺に関することは、そのお寺の人間が
対処し、お寺を護っていくしかありません。

本当に歴史が書き換えられておかしくなって
しまいます。いまここで止めなければいけません。

(私だってこんな記事に人生の時間をかけたくは
ありません……が、でもそういう役目で
生まれてきたと思い、汚れ役でもありますが
お寺のため引き受けます)

唯善上人の志を私たちは
引き継いでいきます。

また、地元の方にもお願いです。
私個人はしょうもない人間ですが、
上越市高田の常敬寺というお寺は
大変な立派な歴史を持つ名刹です。

そのことを知って頂きたいと
願っているのです。

親鸞聖人直系の系譜を持つお寺であり、
京都の本願寺とは文字通り、親類の
お寺です。

このお寺が地元にあるということを
知って頂き、親しんでくだされば
本当に有難いです。

何かお聞きになりたいことが
ありましたら
お気軽にご連絡ください。

また、地域の郷土史家の方々にも
ぜひ関心を持って頂けたら嬉しく
思います。

上越にはすごいお寺があるんだ!と
地域の宝、誇りの一つとして
この先五十年、百年と愛してくだされば
と思いますし、私たち寺族もお寺を知って
頂くべく、尽力していきたいと考えて
おります。

当山は江戸期に西本願寺と喧嘩別れをし、
(お寺の運営の方針について指示を
されたようで、それはできないと
抵抗したようです)
離脱しました。そしてそれ以降お東となって
います。

福泉寺が寺号改めをしたのも私たちが
お西から離れたあとのことで、
宗派の勢力争いの中、真宗史における
有力寺院の「常敬寺」の名を配下から
失うわけにはいかなかったのだろうと
推測します。

古くは江戸時代に西本願寺から、
そして現在は坐像をめぐって学者から、
それぞれレコンキスタ(征服行為)を
受けています。

(尚、西本願寺-本願寺出版社-から
出版されている
今井雅晴監修/
『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』(2011)
という本があります。
題に「関東」とありますが、
長野や新潟、宮城といった
東日本の各寺院が大谷派、本願寺派、高田派
等々宗派を超えて紹介されています。

しかしここには野田市の「常敬寺」しか記載がなく、
平然と野田市の「常敬寺」を唯善(中戸家)の寺
として記述しています。
しかもまったく当山のことを触れていない、
意図的に無視しているとしか思えないような
構成になっています。
-寺の縁起の説明が、当山が燃やされる以前の
蓮如上人の時代に本願寺教団に加わったところで
ぶつ切りで終わっている等-
その理由について西本願寺に手紙で問い合わせ
ましたが、返信はありません)

このまま声も上げずに
消えていくことはできません。

2021.05.17記す

【備考】
当山跡地に坂東報恩寺により
建立された福泉寺(現:本願寺派常敬寺
-当山とは無関係-)には『伝親鸞聖人坐像』
がある。

長須阿弥陀寺系図裏書に
【中戸福泉寺聖人之影像ハ、
浅草報恩寺宣応ヨリ
地内 光照寺真影ヲ給ル】
とあることから、
それが光照寺から
譲られた真影かもしれない。

また、小山正文氏は
当山へのお手紙(2019年3月3日消印)
にて、昭和末期の研究の事を振り返られ、

「千葉常敬寺御影堂を調査した時の
事を思い出しました。
同寺御影堂にはかなり大きな位牌があり
それは唯善さんのものでした。

これを像の正面に安置すると
ぴったりのサイズで
像は聖人ではなく唯善さんかもしれないと
思った事であります。」と坐像は
『唯善坐像』の可能性があることに
言及された。

【2021.11.19追記】
こうした無視が続くことを
みかねた他の先生が、津田氏に
「常敬寺さんに返事を書いたらどうか」
と言ってくれたそうです。
それが2021年5月下旬の話で、
そのとき津田氏は「分かりました」と
返事をされたそうです。
現在のところ、まだお返事はありません。

【2022.8.24追記
未だ返信はありません。】

【2023.1.23追記
1月に新装版の寺史を送る。
未だ返信はありません。】
合掌