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・彰善さんと唯秀さんの追悼碑(二人のお名前が並ぶと
お寺の開基である「唯善」上人の字になりますね……)

副住職の唯真です。

今回は、寺族としても書くことが
辛いテーマなのですが、伝えていく
ことが大事であろうと考え、
常敬寺と太平洋戦争についてお話させて
頂きます。

先に申し上げますと、当山第二十四世
現秀住職(幼い時の名は「善喜」と
いったそうです)の二人の息子、
長男の彰善さんと次男の唯秀さんが
戦争によって命を落としました。

長男の彰善さんは、幼稚園の頃から
京都で暮らし、現在の大谷高校を卒業、
そして大谷大学真宗学科に入学して
首席で卒業したといいます。

頼もしく、真宗の僧侶として将来を
期待されていたと思います。

しかし、「赤紙」が届き、
徴兵されてしまいました。
このときの赤紙は現在もお寺に
保管されています。

そして徴兵された先で体調を崩し、
闘病のためお寺に戻った末、
家族に見守られ、昭和19年(1944)
1月8日に26歳で亡くなりました。
(階級:歩兵軍曹)

最期の言葉は「お母さん」だったと、
そう聞いています。

次男の唯秀さんは現在の高田高校を
卒業し、陸軍士官学校へと進まれました。
(15期卒業)
軍人としてのエリートコースでしょう。

アルバムも残っていますが、
(自分も死ぬだろうと思い、
自ら写真をまとめて作ったそうです)
「唯秀さんは顔がよくてね」と、そんな
お話を戦後お寺に訪ねてきた陸士時代の
仲間の方々が話してくれたといいます。

”中戸(唯秀さん)は上官にかわいがられて
いて、ミスしても怒られないんだ。
俺たちが同じ失敗をしたら怒られたよ。
でも中戸だと、上官は笑っているだけで”

と、当時のことを、懐かしそうに
教えてくれたと聞いています。

先生に気に入られている生徒というと、
現代でもよくみられるものですが、
そのような感じであったのでしょう。

そんななか、唯秀さんは激戦地となった
沖縄戦に臨まれることとなりました。

戦車隊の隊長(車長)として、砲塔部の
ハッチを開けて体を出し部隊を指揮しました。

そのとき、米軍の砲弾が戦車の近くに着弾。
爆風で唯秀さんは意識を失い、
部隊の仲間が唯秀さんを近くの洞窟に
運んだといいます。
書くのも辛いのですが、心臓が破裂した
とも、聞いています。

そして唯秀さんは沖縄・首里の地で亡くなりました。
昭和20年(1945)5月4日、24歳でした。
(階級:騎兵少佐)

お寺には唯秀さんの予備と思しき
軍服が保管されていますが、現在の
感覚からいうとそのサイズはとても小さくみえ、
こんな小柄な体格で戦っていたのだろうかと、
そのとき、米軍の砲弾が戦車の近くに着弾。
爆風で唯秀さんは意識を失い、
部隊の仲間が唯秀さんを近くの洞窟に
運んだといいます。
書くのも辛いのですが、心臓が破裂した
とも、聞いています。

そして唯秀さんは沖縄・首里の地で亡くなりました。
昭和20年(1945)5月4日、24歳でした。
(階級:騎兵少佐)

お寺には唯秀さんの予備と思しき
軍服が保管されていますが、現在の
感覚からいうとそのサイズはとても小さくみえ、
こんな小柄な体格で戦っていたのだろうかと、
感じざるを得ません。

現在、お寺には彰善さんと唯秀さんの
追悼碑が建っています。

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これは、彰善さんと唯秀さんの母、
私にとっての曾祖母であるひでさんの
願いにより建立されました。

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ひでさんは群馬県前橋市の妙安寺さま
から当山に嫁がれました。

自分のことを「あたい」と呼んでいた
そうで、まわりがやめるように言うと、
かえって「あたいあたいあたい!」と
連呼するような、そんな気丈な方であった
といいます。

新潟の冬に慣れず、天気の悪さを嘆いていた
とも聞きますが、しかし、「でも、このお寺は立派だ」
と言っていて、お寺を大事に思ってくださいました。

第二十四世の現秀住職とひでさんには
四人のお子さんがいました。

長男、彰善さん。
次男、唯秀さん。
長女、芳子さん。
次女、富美子さん。

長女の芳子さんは幼年期のころに、
病気で亡くなりました。
医療ミスだったのではと、
そんなふうに聞いています。

そして後継ぎの男子二人は戦争によって
命を落としました。

このお寺を(当時大谷派では女性が住職と
なることはできなかったので、坊守として)
継いで護ってくれたのは、次女の富美子さん
でした。
私の祖母になります。

祖母もまさか末っ子の自分がお寺を
継ぐことになるなんて夢にも思わなかった
でしょう。

本当は、本町(上越市高田)でブティック
を開いて自分のお店を持ちたかったそうです。

戦後、まわりのお坊さんから
「ここら辺で戦争の影響を大変に
受けたのは常敬寺さんだね」
と慰めのお言葉を頂いたと聞いています。

お寺が後継ぎを失うという混乱のなか、
自分の夢を投げ、お寺を護ってくださった
祖母に感謝いたします。

大変という二文字では表せられないほどの
苦労があったことでしょう。

その後、お寺を立て直すのに七十年は
かかったと実感しています。
我武者羅に走り抜けた七十年だったと
思います。
ここ数年になって、やっと寺史の研究という、
そういうこともできる余裕が生まれました。

常敬寺にとっての長い長い「あの戦争」が、
ようやく終わったような気がいたします。

合掌

(後日談)
戦後、次男の唯秀さんに陸軍士官学校への
進学を薦めたという自責の念から、当時の
担任の先生がお寺まで「謝罪」しに来て
くれたといいます。
当時はノルマがあって、優秀な生徒を陸軍に
リクルートすることが求められていたと
お話してくれたそうです。

ここからは、個人的な思いなのですが、学校の
先生、その方も非常に苦しい立場にあって、
戦後も苦しい思いをされ続けたと思います。
そして、お寺に来てくださった。

宗門では戦時中、「戦時教学」といって、
戦争に参加することは信心の証というような、
戦争を積極的に肯定する教学を「開発」しました。
浄土真宗は宗門として、そのような思想のもと、
僧侶やご門徒を教育していました。

戦後は、手のひらを返したかのように、
かつての自分たちの姿をなかったかの
ように、戦争反対と声をあげています。
また、悪魔の戦時教学を作った人たちは、
なんの反省もしませんでした。
戦争反対はもっともです。その通りです。

……しかし、宗門の方たちが、お寺を一つ一つ
まわって頭を下げたという話は聞きません。

少なくとも、当山にはお見えになっていません。
(そう聞いています)

そうした基本的な実践的行動が
伴っていないのに、(戦地だった場所に
袈裟を着て赴く前に、行くべきところがある)
本や講演会で戦争反対といっても、
かつては真逆の戦争賛成の立場であったわけで、
そのことを私たち寺族、遺族に対しても
うやむやのままでは、
言葉に重みがないので、響かず、多くの人
には伝わらない気がいたします。



【太陽と君と地球の顔が
いつまでも笑っていますように/
平和な島で奏でる二人のオーケストラ】
Rude-α / 「CoCo ga Okinawa feat.R'kuma」