20200628

副住職の唯真です。

当山の第12世了照は波乱の人生を
送りました。

得度のため滞在していた大坂の石山本願寺
から下総国へと帰る途中、とある事件(ブログの
固定記事の当山寺史を参照ください)により、
父がその命を落としてしまいます。

その際、信濃国でひとり残された了照(数え
で11歳、満でいうと9~10歳)は
「井上家信」(対馬守)の猶子となったと
伝える由緒書があります。
井上家信と了照が生きた時代は重なります。

この井上家信は、浄土真宗とも縁が深い
信濃井上氏であると思われ、
ということは了照は一度、「井上家」の
人間になったとみることもできます。

末裔である私の名字は井上姓ではありませんので、
その後、天正4年に信濃国山田郷にて再建された(注)
常敬寺の第12世住職になるときに、了照は再び
「中戸山」(中戸殿)の人間に戻ったとみられます。

(注)
下総国では、了照が成長して戻ってくる間の
お寺は横曽根の報恩寺が代務していましたが、
了照の帰還を待つ前の天正2年に兵火により
焼失、焼跡には報恩寺管轄の念仏道場が
建てられ、当山の土地が無くなってしまいました。

「了照は少なくとも一度、井上の一族になった」。

こう仮定して考えてみると、次のようなことが
思いつきます。

それは、

【当山の越後入りは、了照が「井上一族」と
なったことも関係しているのではないか?】

ということです。


当山は江戸時代は本誓寺、浄興寺とともに
「三ヶ寺」と称しており、一つのグループとして
まとまっていたとみられます。
(浄興寺『御臺所(だいどころ)日記』
寛保2年6月25日条-『浄興寺史料目録その1』、
浄興寺所蔵「越後国内東派寺院名簿帳」
『上越市史 別編4 寺社資料二』)

そこで気になったのが、本誓寺も浄興寺も、
信濃井上氏の教念や善性を縁起にもつ
井上系統のお寺であるということです。
そうしたところに、当山を混ぜて頂いている。

当山の了照がもし信濃井上氏の猶子と
なっていたら、それは即ち井上の家に
入ったということです。
となると、本誓寺や浄興寺からみれば「同族」
の扱いを受けた可能性があったのではないか。
あくまで想像ですが、そのような見方も
可能ではないかと思うのです。

当山の信濃から越後への移動は、堀氏の招請に
よるものであると思われます。
堀氏は真宗に好意的で、また、既に飽和状態に
あった北信濃の真宗寺院群が新天地を求め、
真宗信仰の禁制が解かれた隣国の越後国に
なだれ込んでいたという時代の流れもあったでしょう。
(越後国では、かつて長尾為景によって真宗の弾圧、
禁制措置が取られていたため、真宗寺院が国外に退却する等、
真宗の空白地帯が生まれていました)

ですが、そうしたことに加えて、
もしかしたらそこには
先に越後入りしていた本誓寺や浄興寺が、
信濃井上氏という「同族意識」から
当山を呼んではどうかと後押しをしてくれた
のかもしれません。

また、「三ヶ寺」というくくりをみると、
高田のお東の触頭であった本誓寺と浄興寺は、
常敬寺がお西からお東に転派して以降、
様々な面で当山をサポート・工面してくれた
可能性も、考えられます。

合掌