jyokyojisakura2020

副住職の唯真です。

世界の仏教教団には現在大きく分けて
二つの流れ・派があります。

ひとつはお釈迦さま在世の頃よりの
伝統的な修行や戒律を以って
(研究によると、まったく同じではなく、
伝統により”近い”といった感じらしいです)
仏道を実践する「上座部仏教」。
タイやスリランカといった地域に
広がる仏教です。
上座部は”長老”を意味しています。

もうひとつは東アジアに広がる
「大乗仏教」です。日本仏教は
こちらに含まれます。
仏の救い・さとりの範囲を広げ、
修行者だけでなく、在家の民衆
(非修行者・非出家者)も仏に成れる、
救われると考える派閥で、
自己のみでなく他者の救いを目的にします。

その性格から
”(みんなが乗れる)大きな乗り物”
という意味で大乗と呼んでいます。

お釈迦さまの入滅後、自身の修行や
教学の学習に執着して外部との繋がりが
希薄になり、
徐々に保守的・閉鎖的になっていった
当時の仏教教団に対する、
いわば”改革派”として教団の内外から
こうした大乗の運動は起こりました。

そうした経緯があって誕生した
大乗仏教教団ですが、その中の
特徴の一つとして

【経典(お経)の内容がとても「物語的」】

ということが挙げられるでしょう。

伝統的な経典、たとえばダンマパダや
スッタニパータは非常にストイックに
教えを示すことば、まさに金言が集まって
構成されています。

【怒らないことによって怒りにうち勝て。
善いことによって悪いことにうち勝て。
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。
真実によって虚言の人にうち勝て。】
ダンマパダ

【あたかも、母が己が独り子を命を賭けても
護るように、そのように一切の生きとし
生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)
こころを起すべし。】
スッタニパータ

現代人にもスッとことばが入って
くるでしょう。

それに比べると大乗経典は、その多くが
お経全体を貫く一つの壮大な物語から
構成されており、
まるで超大作の映画を観ているようです。

映画を観た後に「あれはこうじゃないか」と
色々考察することがあるように、
大乗経典も、読んだ人がその言わんとせん
ことを心でじっくりと読み解く・感じ取る
フェーズが必要なことが多いように感じます。

それゆえ、”とっつきにくい”、
”わかりにくい”と思われることも
多い気がいたします。

なぜ大乗経典はこのように
「物語的」なのか。

今回はそのことについて
考えてみたいと思います。

まず、宗教学者の阿満利麿氏の
言葉を引用させて頂きます。

【人々は普段の生活では小さな物語を
いろいろと綴り合せ、組合わせて
納得をしながら生きているのです。
大体はその小さな物語で破綻なく一定の
範囲内に収まるような暮らしをしながら、
日々をなんとか過ごしているわけです。】

【しかし、一たび浅原才一のような問題
(引用者注:自分を捨てた母親が別の男性と
暮していて子供もいることが分かる。
自分の父親は妻が蒸発したショックで
亡くなってしまう)に遭遇した時には、
もう小さな物語を綴り合せるだけでは納得
できなくなるのです。
そこにはどうしても大きな物語が必要に
なってくるのですね。】

【人は真実なるものが何であるかが
分かれば何も苦労しないのです。
しかし、真実なるものが何であるかが
分からず、真実なるものを求めるけれども、
その本質が分からないでいます。

ただ、真実から遠い時には、遠いという
不思議な感覚が起こってきます。

私たちは、真実が何であるかは分からない
けれども、自分が真実から遠い状態になった
時には、「何か真実から離れているな」という
思いを持つことができます。】
『新潟親鸞学会紀要第13集』40-41p

阿満利麿氏は「小さい物語」と
「大きい物語」についてこのように
定義します。

小さい物語=私たちの常識や日常の
考え方を綴り合せて納得・理解する
といったもの。

大きい物語=宗教の物語。日常の考え方や
常識では意味の見出せなくなった時に
大事になってくるもの。

小さい物語とは世俗の生き方(常識)。
そして大きい物語とは、その世俗の生き方
では解決できない自分の悩みや不安、感情
を受け止めてくれる器の役割を果たして
いるのではないでしょうか。

大乗経典は、出家者だけではなく、
一般の民衆も対象にして仏の教えが
述べられています。

世俗からある種隔絶された状態で
黙々と修行する人たちだけを
対象にしているのなら、
経典の「物語化」を推し進める必要は
なかったかもしれません。

なぜなら「教団での常識(戒律)」という
「小さい物語」を別に用意すれば事足りる
からです。

しかし、大乗仏教は出家・在家を区別せず、
誰もが仏の道を歩めると説きました。

そこでより強靭な骨組みを持つ、
大乗仏教の「大きな物語」が満を持して
登場するに至った、とも言えるのかも
しれません。

「物語」について千野帽子氏は
こんなふうにも述べておられます。

【「なぜ私が?」と問うストーリー形式から、
「人生が私になにを期待しているか?」と問う
ストーリー形式へと〈転換〉する】
千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』
ちくまプリマー新書105p

”なぜ”という「答えを求める」姿勢から、
”なに”をあなたはするかという「問を受け取る」
生き方へと人を変えていく。

「答え」を求める(大抵の場合、人は”答え”が
ないものについて答えを求めて、それが手に
入らず苦しむという負のループに陥りがちです)
のではなく、
自身をふちどる「問」を聞いていく。

そうした作用を「大きな物語」は私たちに
与えてくれるはずです。
「小さな物語」(常識)は
ああしろ、こうしろ、それはするなという
「命令」ですが、
「大きな物語」はひとりひとりの心に響く
「歌声」のようなものではないでしょうか。

総括してまとめますと、
大乗経典が仏さまの教えを
「物語的」にまとめていったのは、
それが、すべての人々を包括する
仏さまの「歌声」であるから、と
いうのが私なりの考えです。

意識しなければ歌声はただのBGMですが、
(つまり、内容がわかりにくい)
しかしその声が届いたとき、
その音に気が付いたとき、
それは単なる
空気の振動ではなくなって、
その人を救う船となるのでしょう。

合掌