直江の津

副住職の唯真です。

寺町にあります「浄興寺」さまは、
親鸞聖人が教行信証を書き上げた
稲田の草庵がルーツにあるお寺さまです。

その歴史は本願寺よりも古く、長らく
大谷派(お東)の有力寺院でしたが、
現在は別派独立し、真宗浄興寺派の本山です。

関連記事:【高田寺町お寺散歩 - 「浄興寺」(裏寺町2丁目)】

兵火を始めとする数々の法難を経て、
上杉謙信に招かれ越後国へと
移ってきました。

そして現在の稲田の草庵跡には
「西念寺」さまが建ち、
浄興寺さまと同じように
稲田の草庵を受け継ぐとされています。

同じ由来を持つお寺が二つある、というのが
私の前々からの疑問でした。

しかし、この点について言及している
資料や研究、論文をあまりみたことがなく、
どうにも消化不良でしたので、
今回、私なりに考えてみようと思いまして
記事を書かせて頂きました。

まず、この二つのお寺にはどちらも
親鸞聖人の御骨が納められた本廟があります。

浄興寺からは、西本願寺や東本願寺にも
御骨が分骨されています(現在両本願寺に
納められている親鸞聖人の御骨は浄興寺から
きたものです)ので、
御骨の存在は間違いないでしょう。
確か、数年前に新潟県立歴史博物館で
開かれた「なむの大地」という展覧会にも
その御骨が祀られていたかと思います。

西念寺の本廟に関しては、以下のような
記述があり、私も驚きました。

梅原猛氏が西念寺の稲田実乗住職
からお話を聞かせて頂いたという
なかで、
【本寺には聖人の顱頂骨(ろちょうこつ)
を納めた御廟もありますが、その中は、
実際はお骨がなく空洞だったそうです。
砂だけしかなかったとか。】
梅原猛『親鸞「四つの謎」を解く』
新潮文庫 312p

というやり取りがあり、どうやら
本廟はあるけども、御骨はないようです。

時系列を整理して考えれば、
兵火によって稲田の地を追われた
浄興寺の跡地に建ったのが、
西念寺ということではないかと
思います。

そして恐らく御骨は間一髪のところ、
浄興寺が退避する際に持ち出すことが
できたので、現在高田に納められている
ということではないでしょうか。

また、地域情報誌『直江の津』45号に
興味深い記述がありました。

昭和5年に「東京日々新聞」(毎日新聞)
の新潟版に連載された座談会「おらが在所」が
再録されており、高田の町について話し合われて
おります。

その中で浄興寺についても語られていて、
内容が目を引かれるものでしたので
引用させて頂きます。

【川合(川合直次-高田市長):
親鸞聖人由緒の地は京都にも
常陸や他の地にもあるが、遺骨を
蔵する浄興寺は根本廟所ともいうべき
ものです。

渡邊(渡邊善房-東京日々新聞高田通信所主任):
浄興寺は全国的にあまり知られて
いないですな…。

川合:東西両本願寺などにしてみれば、
分骨して貰ったと言われたくないでしょう。
東本願寺歴代法主は必ず一代に一度訪れた
と聞いています。】


【安藤(安藤恵順-高田図書館司書・宗教家):
浄興寺がもといた常陸国稲田に
塔頭末寺が固まっているが、ここで真宗
開宗七百年法要を大々的に行ったが、
発祥の寺が無いという騒ぎ、その時、高田の
浄興寺がそれだと言って宣伝したらよかった。

川合:親鸞が真宗の教義を樹てたのが常陸の
稲田で、遺跡(ゆいせき)が浄興寺。
その浄興寺が常陸から信州へ、信州からまた
越後に移ったのです。(略)

安藤:結局、発祥地を西念寺ということに
したのですが、浄興寺が東本願寺と以前の
関係になっていれば、当然、高田の浄興寺が
発祥地ということになったのに…、名義上
別派独立もよいが、別派では舞台は狭い
ですからね。

川合:分離した理由は、維新直後に本願寺が
中本山のすべてを廃め、末寺を取り上げたのを
怒ってです。
それまでは、高田の浄興寺及び本誓寺などは、
いわゆる中本山として偉大な勢力を誇っていた
のでした。】

この座談会を読むに、当時行われた
稲田での開宗七百年法要が一つの
キーワードとなるようです。

稲田の草庵を本坊として法要を
行いたいが、当時浄興寺は東本願寺との
間で別派独立の問題を抱えており、
強い影響力・発言力を持つ東本願寺の
バックアップを得られる状況ではなかった。

そのため、(江戸時代はお西のお寺である時期
もあったという)西念寺が、「発祥地」として
選ばれた。

・・・というのがその時の全体の流れだった
のかなと感じました。

稲田の草庵で調べると、
浄興寺さまと西念寺さまの二つが出てくる
のは、こうした真宗界における様々な動き
が関係していたということでしょうか。

興味深く読ませて頂きました。

合掌