お寺歴史あらまし

赤門

副住職の唯真です。

前にまとめたレポートですが、
以前から年に数回はお西の
野田常敬寺との関係を訪ねる方
(お西のご門徒等)が
お寺に参拝、お見えになり、また数年前には
野田市役所からも問い合わせがありましたので、
今後の混乱を未然に防ぐために、再度この記事を
上にあげておきます。
(定期的に記事の上にもってきます)
覚如上人の子孫が「大谷」姓であるように、
そもそも、唯善上人の子孫は「中戸」姓になります。
それ以外の姓を名のることはありません。

疑問がある方はいきなりお見えにならずに、
まずこちらの記事を最後まで読んでください。

正直、こちらを訝しがったり、
小ばかにした態度や口調、または
喧嘩腰で来られたり、
私が説明しようと喋ろうとしても
話の途中で割り込んできてまったく
話させて頂けないということもあり、
(全員ではございません)
対応にかなり疲労、疲弊、辟易して
おります。

そのため、このようなレポート
形式もあるとよいと思い、
そのような用件で来られる方は
一度この記事を読んでくだされば
幸いであります。

私たちは何年も何十年も
言われるがまま書かれるがまま
傍観、耐えてきました。

実際に、いよいよお寺に
間違った史学観を掲げて
押し寄せてくる方々がここ近年で
現れたことで、
このままではお寺が”消えてしまう”
との危機を強く感じ、
これはもう傍観は出来ないと
筆を持つ決断をいたしました。

ちなみに寺を二つに分けたとか、
そのような史実はありません。
親戚関係はなく、名字も違います。
私自身は向こうの方と会ったことも
ありません。お中元や年賀状のやり取り
もありません。
なのに、それなのに、分かれたとだけ
いわれてもまったく筋が通りません。
非常に困っています。
後述しますが、私たちは
”追い出された”のです。
ご理解頂ければありがたいです。

天文期(1532~1555)に、下総関宿から
信濃国山田村に「西光院浄蓮寺」という
お寺が移ってきました。
このお寺は西光院の院号を名のり、
また”当山12世了照が開基”と伝えます。
関宿から移ってきた西光院のお寺。
二分されたという話は、このお寺の
存在があるからではないかとも思います。
また、了照を開基とするのは時代が
合いませんが、戦国期に11世顕照が
子・了照を、越後での和睦交渉に
赴く前に”信濃の末寺に預けた”とあり、
そのことが”了照開基”という表現に
繋がっているのかもしれません。
現在は「蓮光寺」さまといいます。)

map常敬寺のあゆみ

新潟県民はひかえめで、あまり
はっきりとモノを言うことは
ないですが、私たちも非常に困って
いますので、さすがにもう明言した
方がよいと思い書かせて頂きます。

親鸞聖人の孫・唯善上人の血族で
あるのは当山、高田の常敬寺です。

常敬寺の歴史は苦難の連続でした。
西光院本願寺から、西光院常敬寺と
寺号が変わり、
(常敬寺という寺号は、覚如の本願寺
(覚如ノ家)と唯善の本願寺(西光院、
唯善ノ家)との間に起こった権力争いに
負けた結果、蓮如上人から付けられた
屈辱的な寺号<常に覚如本願寺を敬え>
であって、本来はこちら側とすれば
有難がるものでもなんでもありません。
敗北した現実を、寺号として刻まれた
のです)

その後は覚如本願寺とも良好な関係と
なりましたが、(後述しますが、信濃での
お寺の再建には顕如上人の力添えが
多分にあったとみられます)しかし
戦国期に当時の顕照住職が殺され、
お寺もその後の戦乱で焼かれました。

戦乱ののち、当山の焼跡を含む関宿
中戸の土地は全て他のお寺が支配する
ところとなっており、信濃に閑居していた
寺族は関宿へは帰れませんでした。
当山文書では中戸の土地は
まるまる「報恩寺」の持分となる、とあります。

当山の寺領は奪われたのです。

『道場ノ子孫相続シテ漸寺号ヲ申シ
福専寺トナリ報恩寺ノ末寺トナル』

『福専寺ハ報恩寺ヨリ焼跡ニ庵室ヲ
立置 看手ヲ ツカワシテ
中戸山(常敬寺)ノ門徒ヲ支配ス』
-当山文書- ・()引用者注

そして私たちが追い出されました。

追い出したほうの言い分としては、
アッチは分寺したのだとか、
ここに残って宝物を守ったという風に、
”追い出した”事実を言い換えるしか
なかったとみられます。

続いて。

これは文書的な”証拠”もないですので、
あくまで踏み込んだ推論となることを
先にお断りしますが、そもそも本当に
”戦乱”で燃えたのかも怪しいといえば
怪しいのかもしれません。

当山の文書では「焼け跡に庵室を建てた」
とありますが、福専寺本堂は鎌倉期の
特色を残すと書いてある本もありました。

また、戦乱で焼け残った弥陀堂(本堂)を
使っていると記述されているレポートも
みました。

しかし、戦乱であった場合、本堂などは
真っ先に攻撃されるのが自然であると
思います。

周りの塔頭も境内の庫裏も焼け、本堂だけ
焼け残る戦乱があるのでしょうか?

昔、お寺は有事の際はフォートレス
となりました。

戦時には僧侶をどかして、本堂を
兵士や武器を待機・備蓄させる基地として
使うとすれば、敵の立場だったらどこを
最初に狙うかは当然決まってくるでしょう。

もし戦乱ではないのなら、当山が
焼き払われた時期は想定(第三次関宿合戦)
より数年前倒し、跡継ぎの了照がたとえば
まだ十代半ばの頃となる可能性も浮上します。

そして、
他の当山文書が伝えるところによると、
本願寺が東西分裂した際、
【「報恩寺」と共にお東になる予定だったが、
「報恩寺」との間で末寺・門徒の取り合い
が起こり、結果常敬寺はお西になった】
<江戸期にお東に転派しました>とあり、
この確執は関宿の土地が取られたという
ところから始まっているのかもしれません。
跡地の管理や事情を問いただしたと思われます。

そのため、そのまま信濃の地にて
お寺を再建します。
(『還住モ叶ヒ難キニ付キ』と
当山文書は伝える)

やがて江戸時代になると
堀氏の招きにより越後へと移ります。
そこでも各地を転々としました。
やっと高田寺町の土地に落ち着くと
広い寺領と大きい伽藍が寄進されました。

住職の死や戦乱を乗り越えて、ようやく
江戸時代になって常敬寺は穏やかな
日々を取り戻しました。

お西時代には高田藩のお西真宗寺院の
触頭を務め、
お東に転派してからも越後各地に
末寺を持つ等、存在感を高めていきました。

「野田の常敬寺の山号は言うまでもなく、
院号まで真似したのか」
「名前が全部同じじゃないか」
「高田にも常敬寺があって不思議に
思った」
等、私たちにしてみればとても傷つく
言葉を高圧的におっしゃる方もおられます。

どうか、先祖が刻んだ、歩んだ歴史を
奪わないで欲しいです。

「ネットをみたって、あんた達の
ことなんて載ってないじゃないか」
という旨の言葉も頂きました。

当山はwikipediaの記事もありませんし、
そう思われるのは仕方が無いのかも
しれません。
(wikipediaの規約で当事者は
記事の作成や編集に関われません
ので、どなたか当山の記事を作成して
頂けたら嬉しいです。)

しかし、それでも私は唯善の常敬寺の
末裔として、誇りをもっていきたいと
思います。

なぜ本当の事を言っても通じないのか。
違う事実がまかり通っているのか。

正直、悔しくてたまりません。
相当、思うところがあります。

出版社や学者にお手紙を出したり、
お話をして
「これは訂正しないといけない!」
となっても、結局はなにも
変わりません。変わっていません。

(普通に指摘している先生や、
史料を読めば普通に「跡地のお寺が
名前を変えた」と書いてあるのに。

ある先生からは常敬寺については
「今に差し障るところが大きいから
(都合がかなり悪いから)」
みんな研究に取り組んでいないという旨の
お言葉を頂きました)

亡くなった私の祖母がよく話していた
ことがあります。
(戦争で男子が全員戦死した為、
末っ子だった祖母が当山を継ぎました)

祖母が若い頃、昭和30年前後頃に、
当時の関宿町(現在は野田市に合併)
から常敬寺の御住職さま、坊守さま、
ご門徒さまが当山に参拝に来られて、
「私のところも常敬寺と名乗って
いますが、わかっておりますから」と
にこやかに談笑されたそうです。
もちろんそれが本当のことか、
お写真やお手紙等の物的な証拠も残って
いないようですし、
祖母も既に還浄され、
当時を知ることはできませんが、
しかし、
祖母もそういう記憶があって私たちに
伝えていたことは事実です。

野田市の常敬寺は、元々は
横曽根報恩寺(坂東報恩寺)の末寺の
福泉寺で、それが西本願寺の寂如上人に
より、当山の旧地に建てられたという理由で、
当山にあやかって、同名の常敬寺と寺号が
変更されたのです。
唯善上人の末裔は「中戸家」であり、
唯善開基の常敬寺は代々中戸姓を継承して
います。(当山の末寺の中に、明治以降
中戸姓を名乗っているお寺もあるので少々
ややこしいですが)

長くなりましたが、それでは
レポートです。

【常敬寺のあゆみ】

常敬寺跡地の研究福泉寺

当山は下総国関宿(現在の千葉県野田市)
で創建されました。
しかし天正の合戦で堂宇を焼失、
戦場となった関東から兵乱を避けて、
東国(関東)の後背地でもあり、
手厚く真宗が保護されていた
信濃国に寺基を移します。
これには本願寺の顕如上人の後援も
あったと伝わります。

常敬寺のあゆみ関宿跡地の研究

「唯善の常敬寺」は今、越後にあると
『叢林集』(1698)にも書かれているよう
に常敬寺は数々の災難・法難を経てきた
お寺です。
(詳しい歴史はこちらの記事を
お読みください→

そして関宿の跡地には「福泉(専)寺」と
いう別のお寺が建ちました。
関東七ヵ寺の一つに数えられ、

(恐らくこの「関東七ヵ寺」という
名称も、本来は関宿時代の当山に
冠せられていたものと推測されます。
当山が焼け落ちた天正時代は2、30年も
すれば江戸時代に入る時期で、
当山の焼け跡に新規建立されたお寺に
東国における古刹寺院郡の尊称が
与えられるのは一般的に考えて
不自然であろうと思うからです)

報恩寺の末寺で、本願寺が東西に分裂
した際は報恩寺に従いお東に属したと
いいます。

跡地の動向の調査は、当山も江戸期から
していたようでそのレポートが伝わって
います。(第17世善流による)
虫食いで欠落していますが、元々は
念仏の道場で、その看主(かんす)の
子孫が道場を相続し、次第に福泉寺と
号した
ということでしょうか。↓

常敬寺文書
(『常敬寺文書』)

その後、延宝7年(1679)に当山
中戸山西光院 常敬寺が
お西からお東に転派すると、
福泉寺は元禄13年(1700)に
お東からお西へ転派。
そして元禄14年(1701)に西本願寺の
命により「常敬寺」と寺号を変更しました。
(本願寺派常敬寺)

【現地には元禄14年(西)本願寺
寂如の命によって復興された
西派常敬寺がある】
同朋大学佛教文化研究所
『真宗初期遺跡寺院資料の研究』
(1986)小山正文氏による当山解説

その流れについては当山の文書も
伝えています。

常敬寺文書2

↑上の文書を読むと、

【この時 弥陀堂の本尊をも抙(ホウ/かき集める)
し給うと。
その外(ほか)、宝物(ほうもつ)は、かつて
なかりき】

また、「大系図ならびに小巻物、下知状
(げちじょう)を写得した」
という文も
みえるでしょうか。

これらからは福泉(専)寺が寺号改めを
するに当たって急遽体面を整えたという
ことが読み取れます。

念仏道場であった福泉(専)寺には、
恐らく木像の本尊はなく、名号軸を
本尊としていた可能性も考えられます。
(分かりませんが)

それを受けての、

【この時 弥陀堂の本尊をも抙(ホウ/かき集める)
し給うと。
その外(ほか)、宝物(ほうもつ)は、かつて
なかりき】


ということでしょう。

先の善流住職文書は、世間で言われている
常敬寺に関するさまざまな誤りを正して、
【其事迹ヲ記載シテ後世ニ示ス】という体で
書かれたものです。

本願寺が東西分裂時、双方は有力寺院の
取り合い合戦でした。
そのことを含めて学者さまに意見を
お尋ねしたところ、当時の西本願寺に
とっても”常敬寺”が必要だったのでは
ないかとのことでした。

宗誓による『遺産法輪集』 宝永8年(1711)
の福泉(専)寺の説明をみると、

【この寺は越後高田常敬寺の遺跡なり。
近年西派となる】

とあります。

また、竹内壽庵らによる
『親鸞聖人御旧跡并二十四輩記』
享保16年(1731) の福泉寺の項には、

【第十世了照の時、(常敬寺は)
越後高田に移住する。
その旧跡を再興して福泉寺と号せしが、
近年西本願寺へ帰参して常敬寺と往古
の寺号となれり】

とあります。

(こちらも学者さまから意見を頂きました。
”「再興」、「復興」という言葉を
用いることで、実際は無関係だとしても、
読み手にお寺の繋がりを想起させる
仕組みを取っている。”

順拝記は、各寺院から受けた説明を
記述しまとめて本にしているので、
当山の跡地として参拝の際、
復興という説明をされたとみられます)

また、長須の阿弥陀寺の「系図」の裏書
には福泉寺が本願寺派へと変わり、
常敬寺となったことが記されています。

長須阿弥陀寺は、元々は三論宗のお寺
でしたが安養住職の時代に親鸞聖人と
出あい浄土真宗へと改宗しました。

安養は上野の人で、氏を「深栖」と
いいます。

裏書

【横曽根報恩寺證西上人隠居せられ候
時節以来、福泉寺 寺号を改め、中戸
常敬寺と号す】

長須阿弥陀寺も代々、報恩寺と縁が深い
お寺で、そして阿弥陀寺の「系図」に
福泉寺のことが書いてあるということは
一考の余地がありましょう。

全体を考えて推測すると、当山跡地に
建てた念仏道場の看主に着いたのが
阿弥陀寺の寺族であったのでしょうか。
(いわば分寺の形で、それで系図に?)

また、福専寺の聖人の真影は光照寺の
ものを報恩寺から給わったと読め、
活発な連携がみてとれるといえましょうか。

当山の文書では『報恩寺から独立したい』と
いう志を福泉寺が持っていたことを感じさせ
ますが、実際の動向は報恩寺を中心に物事が
動いているようにもみえます。

真宗史を学ぶ上でも、これらの事例は
中々興味深いことだと思います。

東西分裂とは単純に本願寺が二つに別れた
という話でなく、その組織内部の地位を
巡っての分裂や再構成をも併せて呼び起こす
ものであったのでしょう。

・関連記事:
『天文期に常敬寺は二分されたか~
「西光院 浄蓮寺」を交えて』

合掌