【僧 唯善 草庵蹟】
【村東山麓にあり、今 陸田を開く。
唯善は覚信尼の息なり。】
【今 此邊(この辺り)の小名を
一向堂と呼ぶもこの廢跡に因れるなり。】
『新編相模国風土記稿』巻百五深沢庄常葉村
(1841)
副住職の唯真です。
当山の開基、唯善上人は東国での
活動の拠点として鎌倉の常盤(ときわ、
常葉)に草庵を結びました。
上人はそれを「弥陀本願寺」と号し、
人々からは一向堂-いっこうどう-
(浄土真宗のことを当時は
一向宗と呼んでいました。)と
親しまれていました。
そしてやがて一向堂はその地域を指す
地名となり、現在もバス停や
公園の名前として残っています。
今回はその一向堂を散策してきました。
鎌倉駅西口から市役所通りをまっすぐ
2キロほどいったところが”一向堂”です。
(途中、隧道を3つ越えます)
一向堂公園はさらに分岐した道を左手に登った
ところにあります。
この辺りに唯善上人がお住まいになっていた
んだと思うと、子孫として非常に感慨深い
ものがありました。
来れてよかったです。
合掌
【常敬寺のあゆみ・・・一向堂】
【村東山麓にあり、今 陸田を開く。
唯善は覚信尼の息なり。】
【今 此邊(この辺り)の小名を
一向堂と呼ぶもこの廢跡に因れるなり。】
『新編相模国風土記稿』巻百五深沢庄常葉村
(1841)
副住職の唯真です。
当山の開基、唯善上人は東国での
活動の拠点として鎌倉の常盤(ときわ、
常葉)に草庵を結びました。
上人はそれを「弥陀本願寺」と号し、
人々からは一向堂-いっこうどう-
(浄土真宗のことを当時は
一向宗と呼んでいました。)と
親しまれていました。
そしてやがて一向堂はその地域を指す
地名となり、現在もバス停や
公園の名前として残っています。
今回はその一向堂を散策してきました。
鎌倉駅西口から市役所通りをまっすぐ
2キロほどいったところが”一向堂”です。
(途中、隧道を3つ越えます)
一向堂公園はさらに分岐した道を左手に登った
ところにあります。
この辺りに唯善上人がお住まいになっていた
んだと思うと、子孫として非常に感慨深い
ものがありました。
来れてよかったです。
合掌
【常敬寺のあゆみ・・・一向堂】