2019032001

副住職の唯真です。

先日のブログでも触れましたように、
高田教区の2018年度秋安居に参加する
機会を得ました。

今年は道綽禅師の『安楽集』について
学ばせて頂きましたので、忘れないよう
ここに要点をまとめておこうと思います。

(ノートから起こしていますが、もし、
間違ったところがありましたらそれは私の
誤解や理解不足によるものです)

●『安楽集』について

まず、『安楽集』は45の経典の引用から
成っている。
この45という数字が大切。
引用するお経を45選び取るには、
その何倍もの経典をあたっていたという
ことになる。
なので、単純に「へぇ~45か。多いなあ」
と片付けてしまうとその熱意が分からない。

また、通常はこのような引用からなる書物は
義疏」(ぎしょ)と呼ぶが、「○○”集”」の
ように「集」の字を使うのは浄土教の特徴。

これだけの経典にこれだけ浄土の真実が
書かれている、という表明。
(人々に示すため)

また様々な45もの経典を引用しているが、
当時隆盛を誇っていた”弥勒信仰”には
触れていない。
弥勒信仰ではなく、阿弥陀仏の浄土を
選び取った道綽禅師の真意を考える。

●『安楽集』が書かれた時代の背景を
考える

『安楽集』は当時の中国の時代が反映
されている。
(仏教界の堕落。「三武一宗」の廃仏。)

当時の中国は大きく2つに分かれていた。

・南朝(漢民族が支配)
・北朝(鮮卑-せんぴ-族が支配)
 -北斉(ほくせい)・・・道綽禅師

南朝の仏教・・・学問を重視(お経を講読)
北朝の仏教・・・実践を重視(禅、読経)
※講読と読経は異なる

のちに南朝と北朝が統一し、「隋」となる。

すると人と人の交流が盛んになる。

この交流が大切。

交流がないと、それぞれ
自分たちの伝統でよいと閉鎖的になって
しまう。

交流を経て、”自己反省”が起こる。
たとえば・・・
謂れも知らずに実践していた。
学ぶだけで実践していなかった。

自らを反省することで成長に
繋がっていく。

●「時機相応」、「約時被機」

私たちは「時代」によって物の見方、
考え方に影響を受けている。

(たとえば現代はTVやスマホ越しに
相手をみる。”対面”しないで生きている。
そのせいで面と向かって話せない、という
こともあるかもしれない)

(経済を”中心”に物事を考える)

道綽禅師に芽生えた「末法」の深い自覚。
(出家得度した二年後に国が滅び、
還俗させられ、仏教弾圧が始まった)

道綽禅師は曇鸞大師の教えを受け継いだ。

【鸞師のをしへをうけつたへ
 綽和尚はもろともに
 在此起心立行は
 此是自力とさだめたり】
(親鸞聖人『高僧和讃』- 道綽讃)

鸞師(曇鸞大師)の教えを
”受け伝え”、・・・大切な押さえ。

”自力と定めたり”・・・
諸行を”自力”と定めた。
これによって”他力”の発見。

道綽禅師がいなかったら、
曇鸞大師の教えは途絶えていた
だろう。
・・・教えを受け継ぎ、
「浄土教」の名のり。成立。

『今(末法の時代)の時と機に一致
している仏法は「浄土教」である』

曇鸞大師の浄土の教えは当時
受け入れられていなかった?

道綽禅師の時代、曇鸞大師が書いた
著作のうち『療百病雑丸方』、
『論気治療方』といった道教的なものは
触れられている様子があるが(『隋書』や
『道蔵』に収蔵)、『浄土論註』といった
浄土の教えを記した著書は触れられていない。



当時、曇鸞大師の浄土教的、他力的な
考え方は受け入れられていなかった?
少なくとも中国仏教界の主流ではなかった?

その中で、道綽禅師によって『安楽集』が
書かれたことに意味がある!

また、”当時受け入れられていなかった”
からこそ、たくさんの経典を引いて
人々に示す必要があった。

●浄土の教えの系譜

時代はさかのぼり・・・・・・。

天親菩薩の『浄土論』。
これも当時は誰も着目していなかった。

当時は同じ天親菩薩の著作でも
『十地経論』が人気。(菩提流支 訳
これを基に”地論宗”という宗派(学派)が興る。
(”浄土論宗”は興らなかった)

この”着目されていなかった”『浄土論』を
見出したのが曇鸞大師。

天親菩薩の『浄土論』を”見出した”
曇鸞大師の有難さ。

そして、その曇鸞大師を受け継いだ道綽禅師。

天親 - 曇鸞 - 道綽 

の流れがとても大切。

続き→

合掌